「嫌やわ、まだ生きとるわ」

伯母サヨコ。私の亡き父の姉で89歳。認知症が進んできている。元は、美容室を長年経営してきた美容師。身寄りがいないため、姪である私が死後までの一切のお世話や手続きなどを託されている。住み慣れた大阪を離れ、私の住む神戸へと移ってきた。最初は向かいの家でスープの冷めない距離に住んでいたが、家の前の坂で転倒、骨折入院。その後、介護老人保健施設を経て、現在はサービス付高齢者住宅に住んでいる。

サヨ子さんは朝起きると、「嫌やわ、まだ生きてるわ!」とスタッフの人に言うそうだ。
病院に一緒に行ったときも、先生が「お加減はどんな感じですか?」と尋ねると、「まだ生きてます。もう早く死にたいんです。」と返事する。(私も何回も聞きました)

「いや~、こんなややこしいおばさん、まだ来ていらんからお迎え来ないんちゃう?」とか、身内なので、笑い話に持っていって次の会話に移動していき・・・ということをしていました。

ですが、浄土宗の僧侶である、大河内大博さんの著書、「今、この身で生きる」を読んでいて、ふと考えさせられた事例がありました。(大河内先生は、私が学ぶ、上智大学グリーフケア研究所の講師もされており、直接学ばせていただいている先生です)

その事例は、大河内先生がある病院の緩和ケア病棟で、心とスピリチュアルケアの担当としていた時の話。
90代のひとり暮らしをされていた女性。ご主人は20年前に亡くされています。
そしてある日から、「早く死にたい」「おじいちゃんが迎えにこない」と口にするようになったのです。
そこは、ターミナルケア(終末期)の現場では、「そんなこと言わずに、頑張って生きよう」などとは口にすることはなく、例え、「早く死にたい」と患者さんが口にしても、それを否定することはありません。
それは、「その方の精一杯の訴えであり、『こんな状態で生きていても意味がない。しんどい』という心の叫びだからです」・・・と大河内先生は言います。

「こんな状態で生きていても意味がない。しんどい』・・・サヨコさんもそう思っているのかもしれません。
いえ、思っているはずです。

「しんどい、しんどい」ということは、よく口にしていますし、耳も一段と遠くなり、体の融通も利かなくなってきています。記憶が曖昧になり、抜け落ちてもいくので、日常できていたこともできなくなっていきます。

狭い意味でのグリーフ(悲嘆)は、大切な人を亡くす「死別」という喪失によるものです。
ですが、サヨコさんのように、これまで培ってきた経験や役割、さらには、出来ていて当然だった日常生活の動作や、物を覚える・思い出すといったことが、だんだんとできなくなってくるということも、大きな喪失であり、それによって、怒り、戸惑い、悲しみ、否定・・・など様々で複雑な心情が交錯します。この大きな感情のゆれも、グリーフです。

本人にとって大切な存在(人、物、状態、自分の心身も)を失う・失っていくことにより体験する、深い悲しみや様々な感情・心身の状態の低下などが、グリーフ(悲嘆)です。

サヨコさんはまさに、自分自身を失っていくその恐怖と葛藤の中で、感じるグリーフを、「死にたい」という言葉で表しているのでしょう。

次に会ったときに、きっとまた「もう早く死にたいわ」と、言うでしょう。
「早く死にたい気持ちになるほど、しんどい?」「どういうことが、しんどいの?」と、聞いてみようと思います。