老いとは手放していく過程でもあり

伯母サヨコ。私の亡き父の姉で89歳。認知症が進んできている。元は、美容室を長年経営してきた美容師。身寄りがいないため、姪である私が死後までの一切のお世話や手続きなどを託されている。住み慣れた大阪を離れ、私の住む神戸へと移ってきた。最初は向かいの家でスープの冷めない距離に住んでいたが、家の前の坂で転倒、骨折入院。その後、介護老人保健施設を経て、現在はサービス付高齢者住宅に住んでいる。

私の弟夫婦には、1歳の子どもがいて、ちょっと前にはできていなかったことが、いつの間にか出来ていたりする。
去年に五月人形と一緒に写した写真と、今年の写真では、その成長の度合いが一目瞭然。
まさに、赤ちゃんから幼児に成長したその姿。

何もできなかったゼロから始まり、経験と共にどんどんプラスしていく赤ちゃん。

反対に、老いというのは、その経験を積んできたことが徐々にマイナスとなっていく過程。
伯母サヨコさんの「今」です。
色々な事が出来なくなっていき、忘れていくことに、本人は多大なる葛藤の時期を経てきました。

本人も、同じような状態になってきているのに、「デイサービスなんかボケばっかりの集まりや。話も通じん!そんなとこ行かへん!」と、毒を吐いていました。

自覚はあるが認めたくない。他人を見下すことで、自分は認知症ではないと必死でもがいていたようにも感じます。

今は、病院など、外へ私と一緒に出かけるときは車イスを使います。
先月は、車イスから車の助手席へ移動する時には、自分の足先で車イスのステップ(足を乗せる部分)を、ヒョイと上げてから足を地面に着地させ、そして、ドアをつかみながら助手席に座る・・・という一連の動作ができていましたが、今月に会ったときは足先でステップを上げる、という動作が分からなくなっていました。

「先に足を乗せるところを上にあげて」「足を地面につけて」などと、ひとつひとつ動作を説明しながら、車の助手席に。車イスから立ち上がるのも、難しくなってきているので、伯母がはいているズボンのウエスト部分を少し持って手助け。
その声掛けが、何だか初めてその動作をする子どもに対してしているような感じもしました。
「前はできていたのに」というこちらの見方を外して、「今日初めてその動作をする人」として見てみると、苛立ちも起こりにくいかも・・・と思った次第。
本人が、かつては出来ていたことを忘れていくのだから、
こちらも、本人が出来ていたことを思い出さないように努力する・・・感じ?

人生ゼロから始まり、老いて同じゼロに戻るのではなく、
スパイラルのように、上に上がりながら上方から元のゼロを眺めている位置。
動作として、頭の記憶としては、あたかもゼロに近づいていっているように感じるけれど、これまでの人生経験により魂の質は向上している。
そして、その魂の存在として、いずれこの世を離れていく。

老いとは、認知症とは、そんな側面もありえるかと。
(実際の介護では、そんなことを言ってられない状況下に置かれている方々も多いのが現状ですよね)